何も成さなかった一日

今日は図書館に行って英語やドイツ語の勉強をはじめてみようと思っていたのだが、気分が乗らなくてダラダラ一日中本を読んでいた。
アドラー心理学でいうと私は勉強したくないから行く気が起きなかったことになる。
しないといけないのだが。

家ではベーシックな「愛着障害」の本を読んでいた。

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)


川端康成夏目漱石ヘミングウェイに興味を持った。でも今の私には小説を読んでいる余裕がない。プログラミングの本や他国語のHOW TO本を読まなくては。
嫌になる。
読んでいて「もう読みたくない」と何度本を一旦横に置いたかわからない。だから結局一日中掛かってもまだ半分しか読み終わってない。
本に出て来る愛着障害持ちの思想が自分の抱いたそれと全く同じで嫌になる。
あ、今気づいたが「愛着障害者はアイデンティティの問題を起こしやすい」と書いてあったけな。今まさにそれだ。
ADHDの本を読んだ時もそうだったか、私の考えていた物事や行動パターンがすでに本などに取り上げられていると自分ってなんだろう?この思考を自分からマイナスしたら何が残るだろう?結局自分ってなんだろうと思う。まさにアイデンティティ行方不明。だから中身に問題があってもそれを差し引いても評価を受けることができる実績が欲しいのだけれども。そんな実績自分に培うことができるだろうか?
……このすぐネガティヴ方向にすぐ傾倒してしまう思想も不安型の愛着障害を持った親から生まれた子供によく現れる症状だ。
強盗や放火をしないだけマシと考えるべきだろうか。
みんな同じ思考パターンで私にオリジナリティがないのなら私が生きている意味などないのでは?と思わずにいられない。やはりどこか私は私を愛しているのだろう。自己愛。

 

先ほどしくじった。
昨日の日記もしくじったが、やはり陽の方に感情的になるのはダメだなと思わずにいられない。
本からの現実逃避(X回目)でツイッターを見ていたらUSJで今年▲▲の催し物があるらしい。▲▲は好きだから行きたいと思った。▲▲といえば友達、一緒に行きたいと思った。前にUSJ行こうって約束していたし。でもすぐ先日日記に書いたことがよぎって自重しようと思った。彼女にとって私は▲▲と通じた友人、知人ですらない。彼女にはしっかりとした親友がいるのだ。私と遊ぶ前日には寝てない(もしかしたら私と遊ぶ事によるストレスで不眠症なのかもしれない)彼女なのだ。
自重しようと思った。少し泣いてゆっくり気持ちを整理した。
で、また本を取った。
愛着障害者は他人との距離がわからない。親密な距離からとことん回避しようとするか、過剰なまでに依存するかのどちらかである』
すぐ本の内容が浮かんだ。
訳が分からなくなった。
健常な人間は誰に対しても程よい距離を保てるというのだ。程よい距離とは?もしかしてたまに会うということは程よい距離なのではないだろうか?もしここで会うことで程よい距離がわかるのではないだろうか?いやそもそも私が一方的に決めつけているだけで彼女は私をそんなに嫌っていないのではないか?
グダグダ悩んだ結果彼女に誘いのLINEを送った。
送ってしまったのだ。
しかも「もし親友と行くなら辞退するけどね」とかいう批判にも取れる 逃げるための保険をつけて。
未だに既読はつかない。
結局私は自分のことしか考えてない。自己愛。
相手の気持ちがわからない。
言ってくれなきゃわからない。言ってもらっても多分わからない。でも自分は知って欲しい。認めて欲しい。
今すごく後悔している。
ネガティヴが止まらない。
どうしていいかわからない。
LINEのメッセージは一回送ったら削除できないのだ。
しかも彼女は何日か前かわからないがツイッターのアカウントを削除したか鍵を掛けている。私がことを気づいたLINEのタイムラインも削除している。彼女に何かしらのアクシデントがあったのだ。SNS上でトラブルがあったかもしれないし、親友との間に何かあったかもしれないし、もしかしたら、この日記がバレたこともありえるのかもしれない。…いや最後はないか。友達は私に興味がないのだから。
彼女のLINEのタイムラインを見たことなんて言ったことないから今更どうしたのなんて聞けないし。
この関係は終わってたのだ。
執着したら相手に迷惑だ。

今涙が止まらない。これは自分のことを価値のない人間だと自分が判断した故に出る涙だと知っている。
自己愛。